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瀬戸丸 (宇高連絡船) : ミニ英和和英辞書
瀬戸丸 (宇高連絡船)[せとまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せ]
 【名詞】 1. current 2. torrent 3. rapids 4. shallows 5. shoal 
瀬戸 : [せと]
 【名詞】 1. strait 2. channel 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [むらじ, れん]
 【名詞】 1. party 2. company 3. group 
連絡 : [れんらく]
  1. (n,vs) junction 2. communication 3. contact 4. connection 5. coordination 
連絡船 : [れんらくせん]
 (n) connecting ferryboat
: [ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship 

瀬戸丸 (宇高連絡船) ( リダイレクト:紫雲丸 ) : ウィキペディア日本語版
紫雲丸[しうんまる]

紫雲丸(しうんまる SHIUN MARU)は、国鉄 宇高航路鉄道連絡船で、本航路最初の車載客船であった。
1950年(昭和25年)と1955年(昭和30年)の2回にわたる衝突事故で沈没し、いずれも死者を出した。特に2回目の事故は修学旅行の児童生徒100名を含む168名の死者を出し、紫雲丸事件〔萩原幹夫 宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだかp32 成山堂書店2000〕と呼ばれ、国鉄戦後五大事故の一つに挙げられる。いずれの事故後も引揚げられ、復旧再就航しているが、2回目の復旧再就航時には瀬戸丸と改称されている。
== 車載客船建造までの経緯 ==
宇高航路の客貨輸送量は、昭和恐慌を脱した1935年(昭和10年)には3月と11月に高徳土讃両線の開通もあり、この頃から増加傾向が著明となった〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p60 成山堂書店1988〕〔萩原幹生 宇高連絡船78年の歩みp13 成山堂書店2000〕。当時、旅客輸送には 山陽丸南海丸の姉妹客船(ともに561総トン 旅客定員1,057名)と水島丸(337総トン 旅客定員493名)の3隻が、貨車航送には、300総トン級でワム換算10両積載の車両渡船第一宇高丸第二宇高丸の2隻があたっていた。しかし、この体制では急増する輸送需要に早晩対応できなくなると予測されたため、1936年(昭和11年)、鉄道省青函航路に準じた大型の車両航送システム導入を決定し、1942年(昭和17年)の開業を目指して、石炭焚き蒸気タービン車載客船3隻の建造を播磨造船所に発注する〔第327 328 329番船 鉄道省御註文 宇野高松間客載貨車渡船 機関部仕様書 株式会社播磨造船所〕〔山本煕 車両航送p209 日本鉄道技術協会1960〕とともに、1939年(昭和14年)10月からは宇野高松両港での水陸連絡設備の建設工事にも着手していたが〔山本煕 車両航送p268 日本鉄道技術協会1960〕、戦争のためやむなく中断していた。
このため、1942年(昭和17年)7月の関門トンネル開通で廃止となった関森航路の自航式貨車渡船 第一〜五関門丸を、同年9月から順次転属させ、宇野高松両港に関門丸用専用岸壁を急造し、同年10月8日より貨車航送に参加させ、応急対応とした〔山本煕 車両航送p210 日本鉄道技術協会1960〕。
宇高航路では、戦時中の船舶喪失はなかったが、酷使による各船の疲弊は甚だしく、戦後の混乱期の急激な輸送需要増大を、機帆船傭船や、第一宇高丸第二宇高丸の車両甲板への旅客の満載などでしのいでいた。
1946年(昭和21年)7月には、運輸省鉄道総局はGHQから、1,400総トン級の車載客船3隻の建造許可取り付けに成功し〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988〕、ここに中断していた大型車両航送システム導入計画が復活した。この3隻は当初ディーゼル船として設計されたが、当時の重油確保の困難さから戦前の設計通りの石炭焚き蒸気タービン船となり〔鉄道技術発達史第6篇(船舶)p36 日本国有鉄道1958〕〔、同年8月16日には早くも第1船が相生播磨造船所で起工され、続く2隻も順次同造船所で建造された。これらは、1947年(昭和22年)7月から1948年(昭和23年)6月にかけて就航したが、対応する大型可動橋などの水陸連絡設備完成を待って、1949年(昭和24年)3月から車両航送を開始した〔可動橋は第1基本桁25m、トラス構造の第2基本桁45m、補助桁10.5mの全長80.5mで、青函用(青森3岸函館3・4岸の新型で40m)の倍以上の長さで、宇野・高松両港の大きな潮位差に対応するため可動橋先端は最大4.05m上下可能:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p269 成山堂書店1988〕〔両港とも後の第2バースのみ完成:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p268 成山堂書店1988〕。これら3隻の第1船が高松市内の山の名から「紫雲丸」と命名されたため、3隻は「紫雲丸型」と呼ばれた。
この大型車両航送航送システム導入に伴い、関門丸型は再び関門海峡へ戻ったが〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p54 成山堂書店1988〕、第一宇高丸第二宇高丸はその後も長らく使用された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「紫雲丸」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shiun Maru disaster 」があります。




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